養泉寺は「真宗大谷派、和中の坪、慶長3年(1598年)浄安開基、
寛永2年(1625年)寺号許され安永7年(1778年)第八代誓空中興す。長屋町(今の明光通り)に和歌保命散の薬を製る店あり。」
と紀州徳川史に記載されています。尚、紀州徳川頼宣公が徳川御三家として紀州に入城された時に養泉寺に寺門、厨子に三葉葵入りの阿弥陀如来を戴き、寺紋及び井本家に五葉葵の紋を使用する事を許されました。養泉寺は真宗大谷派の寺院として浄安開基以来、井本の姓にて世襲してきたものであり、そして現在(2003年)第十七代として井本誓亮に至っています。  
話は、遠く天正の昔に遡る。天正6年(1579年)5月織田信長が再び石山本願寺(現在の大阪城)を攻めた時、紀州の八豪族及び真宗寺院とその門徒が本願寺に味方して石山本願寺に馳せ参じ、織田の攻め大将の木下藤吉郎と合戦をしたが武運つたなく敗戦し、時の法主顕如上人は、その子後の教如上人と共に堺、岸和田、貝塚、根来、和歌山、御坊山(現在の秋葉山)和歌浦、そして雑賀崎鷹の巣の岩窟に落ちのび、そこを御座所とされていました。
紀州名所絵図によると、鷹の巣とは隼鷹がすむ故に付いた名であり、岩窟は教如窟や、上人窟とも言われています。それからしばらく教如上人はこの洞窟に住まわれ、近衛前久が天皇の勅使として仲裁し京都に居する迄ここにおられました。
この時、上人は郷人がいろいろお世話をした厚意に報いるために色々の記録を書き残されたそうです。その中に『はらぐすり』の処方もあり、それが養泉寺に伝えられたという説と、この洞窟におられる上人に毎日食事を運んでいた人がおり、ある時その人の代理のものが食事を運んだ時に「いつも運んでくれている人は如何したのかと」尋ねられたので、「当人は腹具合が悪く臥せっておるので代理の私が来ました」と言った時、上人が「然らばこれこれの薬草を服ませよ」と仰せられ、早速教えられたように飲ませたところ直ちに治ったる故に書き残して、これが養泉寺に伝えられたという説があります。
そうして養泉寺に伝来された後、今日までわかのうら薬加減和歌保命丸及びわかのうら薬加減和歌保命散として、株式会社和歌の浦井本薬房にて製造されています。

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